今日の1曲

古い曲に偏りますが1曲チョイスして綴ります。

1987(昭和62)年の読売ジャイアンツ

こちらのブログのジャンルのひとつとして、ある年の特定プロ野球団の成績よりプレイバックして見るコーナーをつくろう、って事で、その第一弾として今回のものをお送りしたいと思います。

 

今回は1987年の読売ジャイアンツです!

 

この年の巨人は76勝43敗11分で、王貞治監督の5年間の政権下でただ一度、セリーグ優勝を果たした年です。

ただし日本シリーズでは西武に敗れ、王監督は5年間で一度も日本一を果たす事ができず、翌年オフに退任となりました。

 

さて、打者成績です。

前年、近鉄から移籍してきてヘッドスライディングを敢行するなどベテランながら闘志を見せた、有田修三選手は意外と出番が減ってしまい、30試合で6安打にとどまりました。

この年は、とにかく打線が強力でした。

規定打席に到達した3割打者が実に5人!いて、正田耕三(広島)選手と同率で首位打者を獲得した篠塚選手の.333をはじめ、クロマティ、中畑、原、吉村という選手が堂々3割をクリアしました。中畑はこの年.321の高打率で規定打席をクリアしていますが、この2年後には引退してしまいます。

ホームランで見ると、原が34本でチームトップ、吉村は30本、クロマティが28本、山倉が22本と続き、山倉はこの年捕手にしてMVPを獲得しています。

また、駒田が15本を記録し、鮮烈なデビューを飾った83年に対して、84年以降はくすぶっていましたが、この年で漸く復活した感がありました。

吉村は万全な状態でフルシーズンを過ごしたのがこの年が最後となり、年々素晴らしい記録を残していき、当時まだ24歳で、どこまで成長を続けるのかものすごく楽しみだった訳ですが、この翌年…、悲劇の事故に見舞われる事となります。

打点では原が95打点で、打点王を取った83年に迫る勢いで、クロマティは92打点でした。

盗塁は松本匡の13盗塁が最高で、機動力はお世辞にもあるとは言い難い状態でした。守備にも表れていて、西武との日本シリーズクロマティの緩慢な守備を突かれて、一気にホームを陥れられたのも、この年の出来事のひとつでした。尚、チーム最多盗塁の松本匡はこの年で引退しており、前半は活躍していたものの後半急失速し、益々機動力の無さが目立ってくるというものでした。ちなみに後の盗塁王となる緒方はこの年に入団し、一軍デビューするのは2年後の89年となります。

篠塚30歳、原29歳とかなり脂の乗った年齢になってきたか、というところで89年日本一の原動力となって彼らは突き進んでいきます。

それまで長らくショートのレギュラーを張っていた河埜和正が前年に引退し、代わって岡崎がレギュラーの座を獲りましたが、85年より西武から来た鴻野淳基が活躍を見せ、翌年には川相、新人・勝呂とショートのレギュラー争いは激化の一途でした。(原が翌年より外野へ転向しましたが…)

仁村・石井というところが若手で渋い働きをしていましたが、彼らはその後程なく他球団へ移る事となります。南海より代打の切り札として獲得した岡本圭は無安打に終わり、この年に引退となります。山崎章が少ないながら3割をマークし台頭を思わせましたが、後にポスト山倉として名乗りを上げたのは、この年一軍出場無しの村田真でした。

 

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つぎに、投手成績です。

リーグ優勝したこの年に、何より衝撃的だったのが「江川の引退」でした。

この年32歳で9年目、13勝を挙げていたにも関わらず、あっさりと電撃的引退劇でした。

なんでも夏場に広島 小早川に打たれたホームランがきっかけで「自分本来の球が投げられなくなった」と。

この年の投手陣ではなんといっても桑田、2年目を迎え前年の2勝から一気に15勝を挙げ、巨人投手陣の柱を担っていく事となります。槙原は10勝を挙げましたが、水野がキャリアハイとなる10勝を挙げたのもこの年でした。江川のライバル西本は8勝8敗でギリギリ規定の130回を投げるにとどまり、翌年を最後に中日へ移籍する事となります。あとは回数が少ないですが加藤初が7勝1敗と38歳ながら健闘していました。といっても前年14勝を挙げていたので半減になってしまいましたが…。

先発外では、角はここ近年ですっかり中継ぎに回った格好で表立った成績は残せず、前年から抑えの座にあったサンチェが務めていましたが、わずか9Sで3敗を喫し、結局はそれまで中継ぎであった鹿取が抑えに回ってフル回転、実に63試合に登板して18Sを挙げました。鹿取はこの後、抑えを主戦場としてプロ生活を続けていきます。

その他の投手は3勝以下ですが、岡本光投手はこの時期はそこそこ活躍をしていた感がありました。後に3本柱を構成する斎藤雅はこの年は6試合で0勝にとどまり、85年にはチーム最多の12勝を挙げながら、86年7勝で、成績が急降下してしまい、折角の優勝には貢献できなかった格好でした。彼のプロ生活でのキャリアで0勝に終わったのはこの年のみでした。

広田はこの年新人で、1勝2敗ながら30試合登板、防御率1.76とそこそこ戦力になりました。阪急から移籍2年目の木下は13試合で0勝0敗、一軍でのキャリアはこの年が最後となりました。83年に阪急で9勝を挙げて一躍躍進しましたが、結局通算10勝で終わってしまいました。

 

中継ぎ抑えの角、鹿取は30歳を過ぎ、角は89年途中、鹿取は90年それぞれパリーグへ移る事となります。一方で槙原24歳、斎藤22歳、桑田19歳とこれらの投手が平成を迎えるころから「三本柱」として巨人投手陣にでっかく君臨していく事となります。

 

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