今日の1曲

古い曲に偏りますが1曲チョイスして綴ります。

1989(平成元)年の近鉄バファローズ

ブロ野球の球団プレイバックシリーズとして、1987、88年ときたので、今回は1989(平成元)年とします。チームは、この年パ・リーグを9年ぶりに制した近鉄バファローズです。

この年は、前年1988(昭和63)年に仰木彬監督就任1年目にして、西武と球史に残る熾烈な優勝争いをした「10・19」の翌年にあたり、仰木監督の手腕に再度期待がかかり、今年こそ優勝を!という意気込みで迎えたシーズンであったと思います。

 

まずは打撃成績から。

なんといってもブライアント49本塁打本塁打王を初めて獲得した事が大きいです。

ブライアントはその後何年も近鉄の主力打者として本塁打王を計3度獲得する事となりますが、その日本でのキャリアのスタートは前年1988年の中日ドラゴンズ。しかも外国人枠の関係で一軍にすら上がれない状態で、結局中日では一軍に上がることの無いまま、6月末に近鉄へトレードされました。通常、来日したその年のシーズン中にトレードなどあり得ない事ですが、このような大器が二軍に燻っていたことと、当時近鉄の方ではやはり主力の外国人打者であったデービスが大麻所持で逮捕され、急遽大砲が必要になった事があり、これらがうまく合致してこのトレードが成立、ブライアントの成功につながった訳ですね。こうして初年は74試合の出場ながら34本塁打を放ち、2年目のこの年はまさに真価が問われた訳ですが、見事に大砲ぶりを見せつけた結果となりました。

その他のレギュラー陣では、鈴木貴が打率.286で20本をマーク、本塁打はレギュラー定着の87年から90年まで4年連続で20本そこそこをマークしますが、それまで低打率であえいでいたのを2割8分を越えてきました。40歳での早世は悔やまれます。

大石はチーム最多盗塁をマークしたものの、その数はわずか「14」で、当人の肩の痛みがそのまま影響する事があり、福本豊の連続盗塁王記録を途切れさせ4度の盗塁王を記録しますが、調子の悪い時は10そこそこの盗塁しかできない年も結構多く、多い年と少ない年の差が激しかったですが、それでも通算415盗塁を記録し、これは近鉄では史上1位の大記録でした。

新井はこの年37歳となっていましたが見事に3割をクリアし.302でシーズンを終えました。同年代の仲間たちがこの前年、この年と続々と去っていく中で、まだまだバリバリのレギュラーを張っていました。

規定打席到達者はブライアント、新井、大石、鈴木貴とここには載っていませんが途中入団の外国人リベラの5名でした。ちなみにリベラは125試合、.260 25本 79打点でした。当初の新外国人はドッドソンで6試合ながら.313をマークしていましたが大砲感がないのかリベラ獲得となり、ドッドソンは二軍落ち、そのままシーズン終了時に退団となり、リベラは翌年入団のトレーバー獲得が決まった時点で解雇となったといいます。

その他では捕手として、レギュラーは山下が張っていて、前年梨田が引退し、若手主体のレギュラー争いでしたが、古久保、光山などを抑えこの時は山下で、規定打席未満ながら唯一度のベストナインも獲得しました。ただし山下が100試合および300打席を越えたのはこの年が最後で、以後古久保、光山などとのレギュラー争いが熾烈なものとなっていきました。なお、同じ捕手の金沢はこの年限りで韓国球界へ移籍していますが、兄もロッテの選手で、兄弟揃ってプロ野球選手のひとりでした。

この年は先述の通りベテランの大量引退があり、前年に梨田や吹石(=福山雅治の義父)などが引退しましたが、これに続く世代交代を如実に感じさせられることとなりました。この年引退したのは栗橋(38歳)、淡口(37歳)、羽田(36歳)などで、いずれもまだ10打点以上記録していて「まだやれる」向きのあった選手たちですが、あっさりユニホームを脱いだなという印象でした。優勝できた事が彼らにとって花道になったのかもしれません。特に淡口などまだ来年も普通に続けると思っていましたが…。結局35歳以上で残った野手は新井ただ一人なり、球団は大きく若返りました。

27歳で入団した真喜志はこの年3年目で、生涯最高の成績をあげましたが、翌年以降一軍出場が激減し、この年75安打していますが、その後現役生活で15本のヒットを上積みしただけで1994年に引退しています。

若手の中心として打線の軸を形成していた金村・村上が共に骨折やその影響によるものであまり試合に出れず満足な成績を挙げられなかったのが難点でしたが、それでもチームは優勝したので当時の層の厚さというのが窺えるものです。

移籍組では後関がヤクルトから谷宏明との交換で入団し42試合に出ましたが、翌年以降はほぼ出番なく92年に引退しています。俳優の仲村トオルと中学の練習試合で対決したことがあるとの話が時々語られていました。

前年中日より移籍の尾上は1試合のみで、中日でドラフト1位入団し即戦力扱いでしたが、近鉄ではほぼ戦力にならず翌90年が一軍出場が最後、91年に引退します。これに対して前年途中に阪神から移籍の中谷は、阪神時代無安打のまま近鉄へやってきましたが、ここでヒットを打つようになり、93年まで近鉄に在籍、94年オリックスを経て95年阪神に復帰して現役生活を終えています。近鉄へ移った事が選手寿命を延ばした好例だったといえます。

新人では、梨田引退のすぐ後に背番号8を背負った米崎がドラフト1位で入団し、32試合出場で2本塁打を放っていますが、ドラフト2位の中根が10本塁打をマークしており、後に「いてまえ打線」の1番や9番などで活躍する事となります。

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つづいては投手成績です。

この当時30代だったのがベテランでヒゲの村田谷崎のみという若い投手編成であり、翌年には村田はトレードで大洋へ、谷崎はこの年限りで現役引退するので、この2人ともが90年には既にいない形となります。

 この年主力としてはまず阿波野の大活躍が光ります。87年に入団し15勝で新人王を獲得し、翌88年も14勝を挙げ「10・19」でもダブルヘッダー2試合共に当番するフル回転で、3年目のこの年19勝で最多勝を獲得、優勝に大きく貢献しました。巨人との日本シリーズでもエース斉藤雅と2度も投げ合っています。阿波野はこの3年間で48勝を挙げ、絶対的なエースになっていましたが、この翌年90年に10勝を挙げたものの、最初の4年間で58勝をあげたのに対し、91年から引退する2000年までの10年間では17勝しか挙げておらず、91年より成績が急降下、最初の3、4年での酷使や当時のボーク判定の厳格化などで大きく調子を落としてしまったようで思うような働きができなくなり、中継ぎに活路を見出す事となります。しかし、移籍先の巨人や横浜ではいずれも優勝を経験しており、近鉄を含め在籍3球団ですべて優勝を味わっています。

また小野は12勝を挙げ防御率4位の3.39をマーク、しかし後半は不本意の結果となり、オフに肘の手術をしています。2年後の91年にふたたび12勝を挙げてカムバック賞を受賞していますが、2ケタ勝利を挙げたのはこれが最後で、以後西武や中日へ流れる事となります。97年に32歳の若さで引退し、キャリアのほとんどが選手生活の前半に集中した早咲きの結果となりました。

この年、規定投球回数に達したのは阿波野、小野ともうひとりは山崎でした。前年に初の2ケタとなる13勝を挙げましたが、この年は9勝で2年連続2ケタはなりませんでしたが、94・95年に達成する事となります。長く近鉄で活躍しましたが、現役後半はダイエー、広島、最後はオリックスへと流れ、それらすべての球団で少しずつながら勝ち星を挙げています。

抑えは吉井が務め、前年に続き20セーブをクリアしています。抑えを務めたのは88~90年の実質3年間で、この年はそのまっただ中にいた事となりますが、これ以後は3Sしか挙げていません。

この年抑えとしてもう一人活躍したのが、この年阪神より移籍した佐藤秀です。中継ぎ・抑えで47試合に登板し7勝3敗4S、現役時代のキャリア(10勝11敗6S)のほとんどをこの年にあげることとなり、自己ベストの最高なシーズンとなりました。

この年に規定投球回に到達した3人ともが1Sを挙げており、当時の先発に抑えにというのがまだ残っていた時代だったことを感じました。

その他では、やはりこの年一躍その発言が注目された加藤哲が7勝2敗の好成績を残し、日本シリーズでも先発で活躍しました。そこでの発言がやや歪曲されて波紋を呼び、巨人に3連勝して日本一に王手をかけながら、その後4連勝を許してしまい、どこか戦犯のような扱いを受け、時の人になった感がありました。結局通算17勝で現役を終えましたが、この年の7勝が自己ベストでした。

2年目の高柳は前年6勝に対して3勝とダウンし、ドラフト1位で即戦力と評され数年は先発ローテの一人として活躍しますが、全体的に成績は中途半端なものでした。

4年目の池上がこの年初先発を経験し、初勝利を含む3勝を挙げています。

かつて抑えとして絶対的に君臨した石本はこの年1勝3敗、87、88年頃から酷使がたたったのか登板数を含む成績が急降下し、88年からは先発も少しずつしていますが、往年の輝きが取り戻せない状況となっており、この年挙げた1勝が現役最後の勝ち星となってしまいました。

逆にその後近鉄の抑えとして絶対的に君臨する事となる赤堀はこの年がルーキーイヤーで、高卒新人ながら9試合(0勝0敗)一軍マウンドを経験し、1試合だけ先発も務め、1回もたず苦い先発デビューでしたが、これをバネにして翌年初勝利を挙げる事となります。

山村はこの年の一軍試合登板が現役最後となり、翌90年に引退後は審判に転じ、長く審判員を務めました。

また、ここには載っていませんが、佐藤秀と共に阪神よりトレードで福家雅明投手が入団していますが、一軍出場のないままこの年限りで引退し、結局ブロ初勝利をあげられないままとなりました。

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 という事でここまで、近鉄の20世紀最後の優勝年につき振り返りましたが、仰木監督の手腕とごっそり変わりゆく戦力と、そんなもののせめぎ合いの中で展開されたシーズンであったなと感じました。