今日の1曲

古い曲に偏りますが1曲チョイスして綴ります。

1988(昭和63)年の阪急ブレーブス

前回記事1987(昭和62)年の読売ジャイアンツ にそって同様のレビューを書いてみたいと思います。

 

今回は1988年の阪急ブレーブスです!

 

この年の阪急といえば、オフにオリックスへの球団譲渡が決定し、結果的に阪急最後の年となり、また山田・福本といった名球会のベテランが共に去っていった、大きな節目の年となりました。福本は当初引退の意思はなかったものの上田監督の「去る山田、そして福本」のスピーチに「引退するんやぁ」と思ってすっぱり辞めたという話がありました。

この阪急最後の年の成績は、60勝68敗2分けの4位で、Bクラスでシーズンを終えました。前回リーグ制覇したのが4年前、次に制覇するのが7年後となります。監督は上田利治監督で、オリックス譲渡後も含め2年後まで監督を務めました。

 

ここからは個人成績について、まずは打の成績です。

30歳以上は5人だけ、35歳以上は引退する福本ただ一人という若い打線です。

41歳になる年で引退した福本は、往年のレギュラー感はすっかり薄くなり、怪我で離脱した前年より規定打席に到達しなくなり、70年にレギュラー定着後最低の数字に終わったものの、この年でも200打席以上バッターボックスに立っています。日本で唯一、1,000盗塁を達成した自慢の脚はわずか3盗塁でしたが、40歳を越えても走る姿は大物感が残っていました。

この年は簑田がトレードで巨人へ移籍し、打線の核のブーマーは来日6年目で初の規定打席未達で、14本塁打46打点に終わり、これがそのままBクラスの成績に結び付いた感もありました。この前年と翌年には40本塁打を記録しており、勿体ない限りでした。

30歳を迎えた名ショート弓岡でしたが、この年より規定打席未達となり、翌年オリックスになってから出番が激減し3年後33歳の若さで引退する事となります。新人の81年に全試合出場し、84年には3割を打って、守備の名手としてだけでなく打でもリーグ優勝に大きく貢献しました。

後に監督になった福良は2年目86年より二塁のレギュラーとなりましたが、この年はその86年以来2度目の3割到達で生涯最高の.320をマーク、松永と共に首位打者争いに加わる大活躍ぶりでした。盗塁を12記録していますが、この数字でチームトップというのが福本が衰えた後のすっかり機動力が無くなった姿を露呈している感がありました。ちなみにこのチームは生え抜き監督が殆どおらず、阪急オリックスに入団し活躍した選手で監督になったのは大変珍しい例です。

この年の打で最も賑わせたのが松永でした。ロッテ高沢と激しい首位打者争いを繰り広げ、執拗なまでの敬遠攻撃にあい、結局首位打者のタイトルを逃し、3年後の91年にも同じくロッテの平井に4毛差で首位打者を奪われ、2度も僅差で首位打者が獲れず、結局主要タイトルでは盗塁王だけという結果となりました。安打数も1900を越えながら2000本に達せず、悲運の大打者といわれる事となりました。

この年の本塁打でチームトップが石嶺の22本というのが寂しい限りでした。元々捕手出身でしたが、捕手としては大成できずDHで大活躍し、86年にレギュラー定着して以来3割をマークしていましたが、この年は惜しくも.296に終わり、意外にもこの年以降3割をマークする事はありませんでした。

2年目藤井はブーマーの離脱に伴い一塁を任され、規定打席未達ながらも20本塁打をマークし、大器ぶりを見せつけました。山越・本西とトリオで括られていましたが、1歩抜きんでたのが藤井でした。

85年に新人王を獲った熊野は30歳を越え、4年目のこの年は初の本塁打1ケタに終わり、以後は準レギュラーや代打を主にキャリアを積む事となります。

84年に新人王を獲得し、向こう10年はレギュラー捕手として安泰!と言われた藤田は、この年でも正捕手ではありましたが、前年より規定打席割れし、翌年より更に成績が下降し、以後渋い役回りとなっていきます。「向こう10年」と言われたこの年から10年後の94年が彼の現役最後の一軍出場となってしまいました。

その藤田に代わり後に正捕手となる2年目中嶋は、この年より本格的に出番を得て、活躍を始めます。その後2015年46歳まで現役を務め、この阪急ブレーブス在籍者で最後の現役選手となりました。

81年に外野フェンスによじ登ってホームランの辺りをスーパーキャッチし米大リーグの写真殿堂入りしたという守備の名手・山森は規定打席到達は一度もありませんでしたが、そんな中でこの年生涯最高の成績を残し、この年以外の最高安打が40本でしたが、この年には81安打を記録しています。

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つぎに投手成績です。

 

40歳を迎えここまで通算280勝を挙げ、300勝を目指していた大ベテラン山田でしたが、前年には17年連続で記録していた2ケタ勝利および規定投球回数を割り込み、背水で迎えたシーズンでした。開幕して先発ローテに入るもののなかなか勝てず負け数が積み重なるばかりで、2勝10敗とまでなり、さすがにもう無理と思われ、本人も早くから引退を考えていたといいます。そこから2勝を上積みし4勝10敗で終え、現役最後の登板は見事に完投勝利を収め、有終の美を飾っています。今はなかなか現役最後の試合で完投する投手がいないですね。

山田の一つ下で39歳を迎えた今井は、山田と同じく前年より規定投球回を割り込み、この年も2勝4敗、以後も細々と先発に中継ぎにと登板を続けていきます。78年には完全試合を達成し「昭和最後の完全試合達成者」となり、また酒を飲んでマウンドに上がったとされる逸話も有名ですが、山田と共に在籍しながらも最多勝を2度(81・84年)記録しています。

山田・今井と共に84年優勝時の「三本柱」といわれた佐藤は、86年以来2年ぶりの2ケタ勝利(13勝)を挙げました。その後10年、44歳まで現役を続けますが、意外にも2ケタ勝利はこの年が最後(9勝3度、8勝1度)となります。

三本柱に次ぐ存在で前年19勝で最多勝を獲得した山沖は、わずか7勝に終わり、87、89、90年と2ケタ勝利を挙げていただけに、この年到達していれば4年連続2ケタ勝利となるところでした。

山沖よりも更に下の世代のニューリーダー的な存在の星野は、前年に続いて2ケタ勝利を収め、オリックス在籍の97年まで11年連続2ケタ勝利を達成する事となります。

この年特に活躍を見せたのが古溝でした。それまで先発に中継ぎにという使われ方でしたが、この年10勝を挙げ、現役生活15年の中で規定投球回数到達、2ケタ勝利、完封勝利のいずれも、この年のみ記録しキャリアハイとなりました。

前年はアニマルがいましたが、この年の抑えは新人・山内でした。11Sがチーム最多というのが寂しい限りですが、完投する投手が多かったのもあると思います。翌年も同様の成績をあげますが、その後肘の故障等あり、現役時代の成績の殆どが最初の2年であげたものであったことが悔やまれます。

阪急最後のドラ1・伊藤敦鳴り物入りで活躍を期待されましたが1勝4敗に終わり、翌年よりそれなりに活躍を続けますが、どちらかというと晩年の阪神中継ぎの方が多くの人の印象に残っているかもしれません。

前年広島より移籍し4勝3Sと大活躍した森厚はこの年より未勝利となり、90年ダイエーへ移籍して現役を終えました。

同じく森姓の森浩は、通算4勝のうち2勝をこの年に記録し、試合数・投球回も自己最高となり、貴重なワンポイント左腕として重宝されました。

新人の年より勝ち星を挙げていた原田は中継ぎとして、たまに先発で起用され、前年に続く3勝を挙げ、これからというころで、翌年の門田のオリックス移籍に伴いトレードの対象となりダイエーに在籍し、その後1勝も挙げられず、91年に引退しています。

 

打の方もそうですが、投の方も大ベテランを除きかなり若い年齢構成で、既に活躍していた山沖、星野は20代でしたが、その後他に先発ローテで活躍するのは伊藤敦くらいで、大成する投手はいませんでした。移籍して活躍したのはやはり伊藤敦と、同じく阪神へ移籍し抑えで活躍した古溝くらいです。

 

阪急最晩年、この後オリックスになってからガラリと変わる以前の昭和最後のチームでした。

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