遂に8月がやってきた「今日の1曲」。遂に連載が199回を数えました。
今日はこの曲!
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作詞:阿久 悠/作曲:馬飼野康二
発売:1978(昭和53)年5月25日 (当時23歳)
売上:25.7万枚(オリコン最高5位)
1978(昭和53)年5月に発売された西城秀樹さん25枚目のシングル曲です。
●尻上がり曲
最初は淡々とした歌い出しで始まり(オーバーアクションですが)、囁くようですらある歌唱ですが、Bメロで少しボルテージが上がり、サビは
♪ア・ア・アーーーー
と叫ぶ典型的な尻上がりに盛り上がるタイプの曲です。
この曲の歌詞はよく分からなくても、サビでヒデキがあ、あ、あーーと言ってる曲と言えば、分かる人がグッと増えるのではないかと思います。
1番おわりの
♪炎で氷を溶ーかして見ーせるぅぅ
の部分ではすっかりボルテージが上がっていて、最初との落差がかなり激しいです。
氷のような冷たい女性に対して、普段ピエロのような自分が一生に一度は主役になって、恋という戦に挑んで、その冷たさを溶かしてみせる、というアグレッシブな詞であり、「男は戦うもの」という昭和そのものの部分を感じる曲でもあります。
●アイドルからの転換
この当時のヒデキといえば23歳を迎えており、当時ではアイドルという年齢ではなくなってきていて、大人の歌手への転換を迫られていた時期かと思います。(当時の「新御三家」全員にいえますが…)
そんな転換点に差し掛かろうとしていた彼らも、この当時はまだまだ人気を維持していて、ヒットチャート的にもTOP10ヒットの曲を連発していた時期でした。
これは'80年代に「たのきんトリオ」が登場し、ジャニーズ全盛期を迎えるまでこの流れは変わらず、それまでのアイドルたちが、新御三家の牙城を崩し切れなかった部分が大きかったと思います。昭和30年代前半生まれの男性アイドルがあまりいなかったことや、太川陽介・川﨑麻世、渋谷哲平といった面々が新・新御三家などともいわれましたが、テレビの露出や人気の反面、楽曲のセールスという結果には恵まれなかったと感じます。
●久々の25万超え
この当時は20万超えのシングルを連発していたヒデキでしたが、前年1977(昭和52)年には2作連続で10万台前半に落ち込み、TOP10内に入れない曲もありました。これ以外は20万台前半で安定のセールスで推移していたという感じでした。
この曲ではオリコン最高5位で25.7万枚を売り上げ、25万を超えたのは1976(昭和51)年の「君よ抱かれて熱くなれ」(最高3位。33.6万枚)以来、実に9作ぶりの事でした。ここから売上枚数が少しずつ増えていき、翌1979(昭和54)年「ヤングマン」(最高1位。80.8万枚)の爆発的ヒットに繋がっていきます。
新御三家で50万枚以上売り上げた楽曲は数えるほどであり、郷ひろみさん「よろしく哀愁」「哀愁のカサブランカ」が共に50万ほどの売上を記録していますが、ヒデキの「ヤングマン」は80万枚とダントツでした。
●作家陣
作詞は阿久悠氏、当時はピンクレディーの楽曲を次々とヒットさせていたトレンディな作詞家といっても過言ではない状態でしたが、1976~78年頃のシングル曲はほとんど阿久氏の手による作詞となっていました。
作曲は馬飼野康二氏で、割に初期の楽曲の作曲を手掛けていましたが、阿久さんが詞を書くようになってからは、逆にヒデキ楽曲の作曲から離れていました。なので阿久×馬飼野コンビでの楽曲はこれが最初で、次の「ブルースカイ・ブルー」が最後というたった2曲のみで、それぞれ何曲も手掛けている彼らにとって互いに不思議な組み合わせだったと思います。
●幻の作曲家
この曲は、馬飼野さん作曲の前に実は他の作曲家によりミックスダウンまでされていたといいます。
その作曲家とは…大野克夫さんです。
グループサウンズ「ザ・スパイダース」出身で、堺正章、井上順、かまやつひろしという面々と同じバンドにいて、その後「PYG」では沢田研二、萩原健一という面々とユニットを組み、萩原氏がドラマ出演にあたり劇伴を依頼したのが大野氏でした。そして生まれたのがあの「太陽にほえろ!」のテーマです。これを作曲した張本人ですが、この方のバージョンがリリースされるはずでしたが、結果的には馬飼野氏のバージョンになったそうです。
後にこの大野氏バージョンは音源化されますが、全く違う作風で、大野氏のものはブラスのセッションが効きまくった壮大なオーケストラ感もあり、全体的にポップで強めの曲調です。馬飼野氏のような抑揚は小さく、とにかくポップという感じでした。