今日の1曲

古い曲に偏りますが1曲チョイスして綴ります。

今日の1曲 (246)ルビーの指環/寺尾聰(1981)

2024年早くも2ヶ月が終わり3月が始まった「今日の1曲」。

 

今日はこの曲!

 

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作詞/松本隆:作曲:寺尾聰

発売:1981(昭和56)年2月5日 (当時33歳)

売上:134.1万枚(オリコン最高1<10週連続>) ※1981年度年間1位

1981(昭和56)年2月に発売された寺尾聰さん6枚目(単独では5枚目)のシングル曲です。

この曲でテレビに出てきて初めて、彼の名前が寺尾聰(あきら)である事を知りました。それまで活字では毎週見ていましたが、名前の表記について触れられたことがなく、その活字も「寺尾聡」というものだったので「てらお さとし」だとずっと思っていました(笑)

 

●元は歌手

この曲を語る前に寺尾聰さんの事を少し触れます。

現在は俳優として重鎮クラスの名の通った地位にあるといってもよい寺尾さんですが、元々はグループサウンズ「ザ・サベージ」でボーカル兼ベーシストとして活躍したミュージシャンでした。

もっとも父親が俳優界の重鎮・宇野重吉さんなので、役者にはなるべくしてなった側面もありますが。

ザ・サベージでは「いつまでもいつまでも」が1966(昭和41)年にヒット、寺尾さんがまだ10代の頃でした。

グループサウンズ草創期の人気グループのメインメンバーとして名声を得ながら、自身は早々にグループを脱退し、また別のグループへ参加もすぐに抜けて、結局俳優の世界へと足を踏み入れ、石原裕次郎氏の門下として当時の石原プロへ入ります。

 

●ソロ歌手初期

俳優として活動した寺尾さんは、その傍らで時々歌手としてレコードを発売しており、ソロデビュー曲は1970(昭和45)年の「ママに内緒の子守歌」(!)という「えっ?」と思うようなタイトルで、しかも自身で作詞作曲も務めています。

パパ目線で子供に語り掛ける調の曲で、ジャケットも自身と小さな女の子が写っています。(ママに内緒、の体で)

どういう経緯でこの曲がつくられたのか?全く分かりませんが、歌い方は後のものと全然違ってて、普通にストレートな素直な歌い方でした。当時は渋い役柄よりも、ちょっとコメディチックな役柄でフォロワー的な役回りを演じていたように思います。

次のシングルは4年後1974(昭和49)年の「ほんとに久しぶりだね」という楽曲で、ホントに久しぶりに出たシングル曲でしたが、ポップス調の淡々とした曲です。

当時27歳で節回しは後年を彷彿とさせますが、まだまだ歌い方は素直なものでした。レコードジャケットではサングラスを上げた格好で寝そべっていて、後年を若干思わせる雰囲気はありましたが、まだふっくらしていて髪もパーマヘアで長く「こんな時期があったんだ」と思わせてくれます。

その後1977(昭和52)年には田辺靖雄さんとのデュエットで「16の夏」という曲をリリース、これまたどういう経緯のものか分かりませんが、編曲にミッキー吉野さんが関わっており、昔のグループサウンズ界隈の縁でできたものではないかと思います。(「ゴダイゴ」結成にあたり、ボーカルにタケカワユキヒデさんを推したのが寺尾さん、とミッキーさんが語っています)

 

●「お経みたいな曲」が大ヒット

ここからようやく「ルビーの指環」の話に入りますが、1980(昭和55)年8月に「SHADOW CITY」(1980.8.5発売。)を、10月には「出航 SASURAI」(1980.10.21発売。)を、そして翌1981(昭和56)年2月にこの曲と、それまで3~4年のインターバルでシングルリリースしていたのを、この半年間で3曲立て続けにリリースしました。それも自身が大人気刑事ドラマ西部警察にレギュラー出演中の状況で。

対照的なのは、舘ひろしさん(当時石原プロ未入社)は、「西部警察」に出ない時に音楽活動をしていて、再登場後はしばらく休止していました(「泣かないで」のリリースまで)が、寺尾さんはバリバリに出ていた時に楽曲をリリースしている点です。

そしてこの曲発売に当たっては当時の石原プロ・小林専務から「こんなお経みたいな歌、売れるわけがない」と酷評されながら、社長の石原裕次郎さんが「いいんじゃないの」という事で、GOが出たといいます。

個人的に、当時小学生で普通に毎週、西部警察を見てましたが、「リキ(=ドラマで寺尾さんが演じた刑事のニックネーム)が歌手としてレコード出した」なんてことは全然知らなかったですね。

しかし突然に、当時の歌謡ランキング番組であったザ・ベストテンにこの曲が登場して、勿論本人も出演して、知る事となりました。俳優としての、それも刑事役(当時出演中の西部警察と、その前に出ていた「大都会PARTⅢ」)の寺尾さんしか知らない身としては「歌も歌うんだ」「リキが歌ってる」とすごく新鮮でしたし、GSを知らない大半の方々にとっては、同じように感じたのではと思います。

当初のランキングは、今みたいにいきなり1位ではなく、9位やらのスタートで徐々に上がっていく形で、そして遂に1位を獲りました。今は週ごとに顔ぶれが全然違うので、当時のいい意味での緩さを感じます。

 

●表記について

そういえば「指輪」ではなく、「指」なのですね。この時に「環」という漢字を「わ」と読む事を覚えました。「環境」という文字で目にしていましたが、「環=わ」なのか、となりました。よく「ルビーの指」と曲名を誤記されるのもこの曲あるあるだったと思います。

 

●木曜夜の安心感

ザ・ベストテンで1位になった本作ですが、その後もずっと1位を継続し、なんと番組新記録の「12週連続1位」を記録しました。オリコンでも10週連続1位の快挙を達成し、累計売上は134万枚を数え、1981年度の年間売上1位に輝いています。

当時ドラマで大人気の状態でTVの歌番組に出て、人気が人気を呼んだといえると思います。一番良いタイミングで話題になり、まさに「時流にうまく合った」形で、大ヒットへと結びついたんだと思います。

 

そのザ・ベストテンでは10位の曲から発表しては、歌手が歌っていく構成のため、連続1位だと常に番組の最後に歌唱を披露する事となり、寺尾さんが本作を歌って番組終了という格好になり、長らくその状態が続いていました。

ある方の投書で、当時住んでいた寮の集合TVでこの番組を見ながら、最後の寺尾さんのルビーの指環を見て「今日も1位だったね」とホッとしながら就寝していた、ような話を聞いて、自分も似たような気持だったなと感じました。

当時自分は小学5年生で、この曲が歌われて番組が終わり、そのまま「おやすみ」と親に言って寝ていた、ある意味ルーティーンのようなものがありました。木曜夜22時前の定番、そんな感じでしたね。

 

●記念品

そのザ・ベストテンで、連続1位最長記録として、ソファーに掛ける帯に「ルビーの指環 寺尾聰」のような表記がなされて、これは番組終了までずっと飾られていました。

他には、品ではありませんが、番組出演中に当時の社長であった石原裕次郎さんからの電話メッセージによる祝福もありました。「あきら」と呼んでいたのを覚えていますが、これがいつだったか判然としません。本作大ヒットのさなかの1981年4月に、裕次郎さんは大動脈瘤で倒れ、生死の境をさまよっていた、そんな時期でもありました。

 

●3曲同時ベスト10

本作が売れた事を受ける形で、この前の半年間にリリースした他の2曲も急速にランクを上げ、「SHADOW CITY」は結構な期間、歌番組に登場し、「出航 SASURAI」はベストテンランクインは少なかったですが、「3作同時にベストテン入り」の快挙を成し遂げ、歌番組で寺尾さんが3曲歌うという、まさに「時の人」になっていました。

歌に役者に、寺尾さんの絶頂期といえると思います。

 

●作家陣

作詞は松本隆さんで、男女の別れとその後の「あなた」を失ってから、ベージュのコートを見かけては、指にルビーのリングを探してしまうという、別れた相手への未練を描いた作風の、どちらかというと悲歌です。

作曲は寺尾聰さん自身であり、矢沢永吉さんと同じで詞は他者に委ねるスタンスで、この曲では例外的に松本隆さんですが、他の曲はほぼ有川正沙子さんが担当し、曲は基本的に寺尾さん自身がつくっています。

 

●歌唱

先述の「お経のような」じゃないですが、寺尾さんの歌唱は概して抑揚が少ない感じで、その中で

♪くんもーりー ガァーラースの むぅこうは かぁぜんのまち~

といった具合に小節の頭部分に、小さな母音で伸ばして、強めのアクセントをつけるような感じで歌っていて、そこに大きな特徴を感じたものでした。

あとはやっぱり、あの独特の両手の振りですね。 

西部警察のリキそのままのクールな雰囲気とファッション、サングラスをかけたままでの歌唱、泳ぐような両手の動きと、肩が上下する独特のクネクネした動きが大変印象的で、この曲をカラオケで歌うと自然と手や肩がそのような動きをしてしまいます(笑)

 

サウンド

独特の前奏で、

♪タンタッタララーラ、タタッ…

と流れてくると瞬時にこの曲!と分かるメロディーで、淡々とした曲なのに、不思議と気持ちが上がってきます(個人的に)

音源にはないと思いますが、TV番組での歌唱を先に聴いたのでそのイメージが強くて、ハモリがすごく強い事を感じました。音源を後で聴くと、それらが全然ない事がすごく不思議な感覚でした。

 

●ルビーが売れた

この曲が大ヒットした事で、ルビーの指環が売れたという話をあちこちで聞きました。この後ある曲でホタテがすごく売れた、という話も同様のエピソードですが、曲がヒットすると恩恵にあずかるものがある訳ですね。

 

●退社の遠因

この曲の大ヒットは、逆に後の石原プロ退社への遠因となっていきました。原因といっても良いのかもしれませんが、コンサートツアーをめぐってのマスコミやファンとの関係性について、ファンをより大切にしたい本人の思いと、マスコミ対応を重視する会社側との思いの溝が埋まらず、というような事でした。

彼が退社した頃は「西部警察」で演じた「リキ」の壮絶な殉職による降板後の事で、当時覚えてるのは「破門」とか「勘当」の活字が並んでいた事でした。

それらの漢字表記と読み方はこの件で覚えましたが、実際はそんな「クビ」的なものではなく、「かわいい子には旅をさせろ」的な意味合いで送り出した、といわれています。

同時期に、西部警察でバディ的なコンビを組んでいた苅谷俊介さんも石原プロを退社、「考古学研究に専念したい」というもので、送辞的なものとして僚友である舘ひろしさんが、彼に曲をつくってレコードにする形で送り出したという逸話もありました。

その後寺尾さんは歌の世界より、役者として大成していきますが、その「旅」の成果はじゅうぶんに上がったと思います。

 

昨年末の紅白で、76歳にして再びこの「ルビーの指環」を披露して、健在ぶりをアピールしていたのは記憶に新しいところです。

 

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