だいぶ更新頻度が上がってきました「今日の1曲」。
今日はこの曲!
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作詞:糸井重里/作曲:桑名正博
発売日:1981年3月5日
売上枚数:1.1万枚(オリコン最高83位)
1981(昭和56)年3月発売の桑名正博さん10枚目のシングル曲です。
桑名正博さんは元はバンド活動でデビューしており、ファニー・カンパニー(略してファニカン)として1972(昭和47)年、19歳の時にリリースした「スウィート・ホーム 大阪」という曲がデビュー曲になります。
前にキャロルの記事をお届けしましたが、矢沢永吉率いるキャロルに桑名正博率いるファニカンで「東のキャロル、西のファニカン」と並び称される、当時の斬新なロックバンドでした。まだまだロックに市民権がない、歌謡曲の時代であり、アイドルですらやっとでてきた状況だったので、当然世間を賑わすようなヒットには至りませんでした。
時代を急激に突っ走ったキャロルと、20歳までの思い出として駆け抜けたファニカン、共に日本語の詩をロックのリズムに乗せた「時代の変革者」でロックのカッコよさをいち早く表現したバンドでしたが、あらゆることが対象的で、そしていずれも活動期は長くなく、キャロルは1975(昭和50)年に、ファニカンはそれより早く1974(昭和49)年に解散してしまいます。
桑名さんは1975(昭和50)年よりソロ活動を始めたといいますが、1976(昭和51)年に「真夜中列車第二便」という曲でソロデビューします。2曲目「哀愁トゥナイト」(1977年)からオリコン100位以内(最高99位、0.2万枚)に入り、4曲目「サード・レディー」(1978年)で最高24位、11.0万枚とヒットを飛ばしました。
そして翌1979(昭和54)年、彼を代表する大ヒット曲「セクシャル・バイオレット№1」が発売されました。唯一のオリコン最高1位(TOP10入りも唯一)を獲得し、59.2万枚を売上げ、彼の代名詞になりましたね。
その後のシングルは売上的には尻すぼみになり、今回記事の「追跡ハートエイク」が最後のチャートインとなりました。2012(平成24)年、倒れて数ヶ月意識のないまま59歳の若さで旅立たれ、もっと活躍を見たい人でした。後年は俳優活動を展開したり、大阪で父の会社を継いで社長業をしていたり、芸能活動とりわけ歌手活動の比重は大きくなかったですが、随所に往年の名曲でファンを楽しませていました。
この曲の出た当時は、発売直後に「桑名将大」(読み同じ)に改名します。個人的にですがこの表記の頃あまり良いイメージがないです。複数回の犯罪報道があり、当時小学生でしたが、最初サザンのボーカルが捕まったのかと勘違いしてました。あとで正博に戻していますが、改名は姓名判断だったのでしょうか。
曲そのもののでいうと、個人的に彼の曲の中でかなり好きな部類です。
まず文句なしに全体的に疾走感に溢れていて、いきなり♪BABY~ と前奏なく歌から始まるのも好きですね。
サビの♪ハートエイク! の「エ」の部分のシャウトを入れた歌い方が個人的にすごくツボなんですよね。wowwowwow yeyyeyyeyってシャウトも切れ味良すぎてサイコーです。
この曲は当時発売されたアルバム「ミラー・ドライブ」にも収録されていますが、シングルとアルバムではややバージョンが異なり、シングル版はかなりエコーを利かせたり、抑揚がかなりつけられており、アルバム版は少し淡々としていて、サビのシャウトもシングルに比べるとやや控えめになっています。
更には、歌詞が1ヶ所違っていて、シングル版はラストの部分が
♪走りまくれ セダンスニーカー
ですが、アルバム版は
♪走りまくれ 俺のスニーカー
となっています。
作詞が糸井重里さんですが、この当時は矢沢永吉さんの曲に詩を書いたりなど、知己の歌手に詩を提供したりしていました。作曲は桑名さん自身です。彼のシングル曲は初期は松本隆/筒美京平というゴールデンコンビが多かったのですが、「セクシャル・バイオレット№1」のヒットより後は変わってきます。
ジャケットは妙なインパクトがありました。
長髪アフロでエアギターで立ってるのはいいのですが、なんだこのカッコは??という服装もですし、ロック歌手のジャケットに多い「難しい顔」をしていない、実にライトな感じの仕上がりになってて、そこがすごく不思議な雰囲気と感じた部分でした。