今日の1曲

古い曲に偏りますが1曲チョイスして綴ります。

今日の1曲 (247)異性/片平なぎさ(1975)

3月になってから寒くなってきた「今日の1曲」。

 

今日はこの曲!

 

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作詞/山上路夫:作曲:三木たかし

発売:1975(昭和50)年5月5日 (当時15歳)

売上:3.2万枚(オリコン最高41)

1975(昭和50)年5月に発売された、片平なぎささん2枚目のシングル曲です。

 

片平なぎささんの楽曲でこれまでupした記事です。

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●2枚目シングル

「2時間ドラマの女王」として長年君臨し、大女優のイメージが強い片平なぎささんですが、元々はアイドル歌手で、当初から現在に至るまでずっとホリプロに所属し続けています。榊原郁恵さんはデビューでは後輩になりますが、同じ事務所で同学年、高校の同級生だった間柄です。

と、アイドルしていた訳ですが、その過去が霞むくらい女優としてのキャリアが長く、インパクトのあるものとなっており、最初は歌手として1975(昭和50)年1月20日に15歳で「純愛」(最高33位。7.7万枚)という曲でデビューしました。

本作「異性」は、これに続く2枚目のシングル曲で5月にリリースされましたが、この2ヶ月後に16歳になるという事で、高校1年生15歳でこの大人っぽさ、当時から大器の片りんが見えていたように思います。

本人が「歌は苦手」との苦手意識が強く、歌の仕事では常に仕事場へ向かう足取りが重かったといいます。聴く側としてはとても雰囲気のある歌声で独特の世界観を感じますが、本人の苦手意識が上回ったという事でしょうか。この世代のアイドル出身者は後に多くの方が歌手活動に回帰したりする中、歌はまるで黒歴史かのように戻ってくる気配は感じられずに現在に至っています。

 

●順位・売上

オリコン最高は41位で、前作「純愛」が33位だったのに対してやや落とし、売上は3.2万枚で、「純愛」は7.7万枚につき半減してしまいました。

 

●作家陣

作詞は山上路夫さんで、デビュー曲「純愛」とこの「異性」の最初の2作のみ詞を手掛けており、作曲は三木たかしさんで歌手・黛ジュンさんの実兄にあたりますが、デビュー曲から最初の5作の曲を手掛けています。

よって最初の2作だけが、このコンビの手によるものとなります。

 

●けだるいポップス調

アイドルポップスという感じではなく、気だるさに溢れたイントロからスローに入っていく感じで、淡々とした歌い出しで始まります。

この恋する気持ちをどうすればよいか?思い悩んで日暮れの街を一人歩いたり、すぐに涙ぐむようになったり…という切ない心を描いています。

 

●Bメロで転調

♪泣~き~たい時もっ私 野の花のように~

で、淡々としたAメロから突然テンポがゆっくりになって不思議な感覚を覚えますが、ここで一気に壮大感溢れる雰囲気になっていきます。

ここから先は

1番:♪清らかな心をもって 待つことだけです

2番:♪悲しみを願いに変えて 祈ってゆきます

といじらしいほどに健気な女心を歌い上げ、サビで

♪ただひたむきに生きること ただひたむきに愛すること

と結び、どこまでもまっすぐな恋心をこんな大人びた15歳に歌われたら…

と感じずにはいられませんでした。

それにしても、アイドルポップスというよりは、昭和の喫茶店の歌謡BGMで流れていそうな気だるさあふれる曲調と、彼女の年齢の割に大人っぽい雰囲気とが絶妙にマッチした曲と感じます。まっすぐなアイドル路線と違う雰囲気が返って合っているような。

 

この曲はリアルでは全然知らなかったですが、1997年頃に中古レコード店で漁ってた時に見つけました。片平なぎささんの楽曲はこの当時「私のいちばん美しい時を」だけ知っていました(ドラマ「白い波紋」の再放送を見て)が、その当時よりもっと初々しい印象の強いこのジャケットを見て、聴きたい!と思いレコードで買ったものでした。

 

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今日の1曲 (246)ルビーの指環/寺尾聰(1981)

2024年早くも2ヶ月が終わり3月が始まった「今日の1曲」。

 

今日はこの曲!

 

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作詞/松本隆:作曲:寺尾聰

発売:1981(昭和56)年2月5日 (当時33歳)

売上:134.1万枚(オリコン最高1<10週連続>) ※1981年度年間1位

1981(昭和56)年2月に発売された寺尾聰さん6枚目(単独では5枚目)のシングル曲です。

この曲でテレビに出てきて初めて、彼の名前が寺尾聰(あきら)である事を知りました。それまで活字では毎週見ていましたが、名前の表記について触れられたことがなく、その活字も「寺尾聡」というものだったので「てらお さとし」だとずっと思っていました(笑)

 

●元は歌手

この曲を語る前に寺尾聰さんの事を少し触れます。

現在は俳優として重鎮クラスの名の通った地位にあるといってもよい寺尾さんですが、元々はグループサウンズ「ザ・サベージ」でボーカル兼ベーシストとして活躍したミュージシャンでした。

もっとも父親が俳優界の重鎮・宇野重吉さんなので、役者にはなるべくしてなった側面もありますが。

ザ・サベージでは「いつまでもいつまでも」が1966(昭和41)年にヒット、寺尾さんがまだ10代の頃でした。

グループサウンズ草創期の人気グループのメインメンバーとして名声を得ながら、自身は早々にグループを脱退し、また別のグループへ参加もすぐに抜けて、結局俳優の世界へと足を踏み入れ、石原裕次郎氏の門下として当時の石原プロへ入ります。

 

●ソロ歌手初期

俳優として活動した寺尾さんは、その傍らで時々歌手としてレコードを発売しており、ソロデビュー曲は1970(昭和45)年の「ママに内緒の子守歌」(!)という「えっ?」と思うようなタイトルで、しかも自身で作詞作曲も務めています。

パパ目線で子供に語り掛ける調の曲で、ジャケットも自身と小さな女の子が写っています。(ママに内緒、の体で)

どういう経緯でこの曲がつくられたのか?全く分かりませんが、歌い方は後のものと全然違ってて、普通にストレートな素直な歌い方でした。当時は渋い役柄よりも、ちょっとコメディチックな役柄でフォロワー的な役回りを演じていたように思います。

次のシングルは4年後1974(昭和49)年の「ほんとに久しぶりだね」という楽曲で、ホントに久しぶりに出たシングル曲でしたが、ポップス調の淡々とした曲です。

当時27歳で節回しは後年を彷彿とさせますが、まだまだ歌い方は素直なものでした。レコードジャケットではサングラスを上げた格好で寝そべっていて、後年を若干思わせる雰囲気はありましたが、まだふっくらしていて髪もパーマヘアで長く「こんな時期があったんだ」と思わせてくれます。

その後1977(昭和52)年には田辺靖雄さんとのデュエットで「16の夏」という曲をリリース、これまたどういう経緯のものか分かりませんが、編曲にミッキー吉野さんが関わっており、昔のグループサウンズ界隈の縁でできたものではないかと思います。(「ゴダイゴ」結成にあたり、ボーカルにタケカワユキヒデさんを推したのが寺尾さん、とミッキーさんが語っています)

 

●「お経みたいな曲」が大ヒット

ここからようやく「ルビーの指環」の話に入りますが、1980(昭和55)年8月に「SHADOW CITY」(1980.8.5発売。)を、10月には「出航 SASURAI」(1980.10.21発売。)を、そして翌1981(昭和56)年2月にこの曲と、それまで3~4年のインターバルでシングルリリースしていたのを、この半年間で3曲立て続けにリリースしました。それも自身が大人気刑事ドラマ西部警察にレギュラー出演中の状況で。

対照的なのは、舘ひろしさん(当時石原プロ未入社)は、「西部警察」に出ない時に音楽活動をしていて、再登場後はしばらく休止していました(「泣かないで」のリリースまで)が、寺尾さんはバリバリに出ていた時に楽曲をリリースしている点です。

そしてこの曲発売に当たっては当時の石原プロ・小林専務から「こんなお経みたいな歌、売れるわけがない」と酷評されながら、社長の石原裕次郎さんが「いいんじゃないの」という事で、GOが出たといいます。

個人的に、当時小学生で普通に毎週、西部警察を見てましたが、「リキ(=ドラマで寺尾さんが演じた刑事のニックネーム)が歌手としてレコード出した」なんてことは全然知らなかったですね。

しかし突然に、当時の歌謡ランキング番組であったザ・ベストテンにこの曲が登場して、勿論本人も出演して、知る事となりました。俳優としての、それも刑事役(当時出演中の西部警察と、その前に出ていた「大都会PARTⅢ」)の寺尾さんしか知らない身としては「歌も歌うんだ」「リキが歌ってる」とすごく新鮮でしたし、GSを知らない大半の方々にとっては、同じように感じたのではと思います。

当初のランキングは、今みたいにいきなり1位ではなく、9位やらのスタートで徐々に上がっていく形で、そして遂に1位を獲りました。今は週ごとに顔ぶれが全然違うので、当時のいい意味での緩さを感じます。

 

●表記について

そういえば「指輪」ではなく、「指」なのですね。この時に「環」という漢字を「わ」と読む事を覚えました。「環境」という文字で目にしていましたが、「環=わ」なのか、となりました。よく「ルビーの指」と曲名を誤記されるのもこの曲あるあるだったと思います。

 

●木曜夜の安心感

ザ・ベストテンで1位になった本作ですが、その後もずっと1位を継続し、なんと番組新記録の「12週連続1位」を記録しました。オリコンでも10週連続1位の快挙を達成し、累計売上は134万枚を数え、1981年度の年間売上1位に輝いています。

当時ドラマで大人気の状態でTVの歌番組に出て、人気が人気を呼んだといえると思います。一番良いタイミングで話題になり、まさに「時流にうまく合った」形で、大ヒットへと結びついたんだと思います。

 

そのザ・ベストテンでは10位の曲から発表しては、歌手が歌っていく構成のため、連続1位だと常に番組の最後に歌唱を披露する事となり、寺尾さんが本作を歌って番組終了という格好になり、長らくその状態が続いていました。

ある方の投書で、当時住んでいた寮の集合TVでこの番組を見ながら、最後の寺尾さんのルビーの指環を見て「今日も1位だったね」とホッとしながら就寝していた、ような話を聞いて、自分も似たような気持だったなと感じました。

当時自分は小学5年生で、この曲が歌われて番組が終わり、そのまま「おやすみ」と親に言って寝ていた、ある意味ルーティーンのようなものがありました。木曜夜22時前の定番、そんな感じでしたね。

 

●記念品

そのザ・ベストテンで、連続1位最長記録として、ソファーに掛ける帯に「ルビーの指環 寺尾聰」のような表記がなされて、これは番組終了までずっと飾られていました。

他には、品ではありませんが、番組出演中に当時の社長であった石原裕次郎さんからの電話メッセージによる祝福もありました。「あきら」と呼んでいたのを覚えていますが、これがいつだったか判然としません。本作大ヒットのさなかの1981年4月に、裕次郎さんは大動脈瘤で倒れ、生死の境をさまよっていた、そんな時期でもありました。

 

●3曲同時ベスト10

本作が売れた事を受ける形で、この前の半年間にリリースした他の2曲も急速にランクを上げ、「SHADOW CITY」は結構な期間、歌番組に登場し、「出航 SASURAI」はベストテンランクインは少なかったですが、「3作同時にベストテン入り」の快挙を成し遂げ、歌番組で寺尾さんが3曲歌うという、まさに「時の人」になっていました。

歌に役者に、寺尾さんの絶頂期といえると思います。

 

●作家陣

作詞は松本隆さんで、男女の別れとその後の「あなた」を失ってから、ベージュのコートを見かけては、指にルビーのリングを探してしまうという、別れた相手への未練を描いた作風の、どちらかというと悲歌です。

作曲は寺尾聰さん自身であり、矢沢永吉さんと同じで詞は他者に委ねるスタンスで、この曲では例外的に松本隆さんですが、他の曲はほぼ有川正沙子さんが担当し、曲は基本的に寺尾さん自身がつくっています。

 

●歌唱

先述の「お経のような」じゃないですが、寺尾さんの歌唱は概して抑揚が少ない感じで、その中で

♪くんもーりー ガァーラースの むぅこうは かぁぜんのまち~

といった具合に小節の頭部分に、小さな母音で伸ばして、強めのアクセントをつけるような感じで歌っていて、そこに大きな特徴を感じたものでした。

あとはやっぱり、あの独特の両手の振りですね。 

西部警察のリキそのままのクールな雰囲気とファッション、サングラスをかけたままでの歌唱、泳ぐような両手の動きと、肩が上下する独特のクネクネした動きが大変印象的で、この曲をカラオケで歌うと自然と手や肩がそのような動きをしてしまいます(笑)

 

サウンド

独特の前奏で、

♪タンタッタララーラ、タタッ…

と流れてくると瞬時にこの曲!と分かるメロディーで、淡々とした曲なのに、不思議と気持ちが上がってきます(個人的に)

音源にはないと思いますが、TV番組での歌唱を先に聴いたのでそのイメージが強くて、ハモリがすごく強い事を感じました。音源を後で聴くと、それらが全然ない事がすごく不思議な感覚でした。

 

●ルビーが売れた

この曲が大ヒットした事で、ルビーの指環が売れたという話をあちこちで聞きました。この後ある曲でホタテがすごく売れた、という話も同様のエピソードですが、曲がヒットすると恩恵にあずかるものがある訳ですね。

 

●退社の遠因

この曲の大ヒットは、逆に後の石原プロ退社への遠因となっていきました。原因といっても良いのかもしれませんが、コンサートツアーをめぐってのマスコミやファンとの関係性について、ファンをより大切にしたい本人の思いと、マスコミ対応を重視する会社側との思いの溝が埋まらず、というような事でした。

彼が退社した頃は「西部警察」で演じた「リキ」の壮絶な殉職による降板後の事で、当時覚えてるのは「破門」とか「勘当」の活字が並んでいた事でした。

それらの漢字表記と読み方はこの件で覚えましたが、実際はそんな「クビ」的なものではなく、「かわいい子には旅をさせろ」的な意味合いで送り出した、といわれています。

同時期に、西部警察でバディ的なコンビを組んでいた苅谷俊介さんも石原プロを退社、「考古学研究に専念したい」というもので、送辞的なものとして僚友である舘ひろしさんが、彼に曲をつくってレコードにする形で送り出したという逸話もありました。

その後寺尾さんは歌の世界より、役者として大成していきますが、その「旅」の成果はじゅうぶんに上がったと思います。

 

昨年末の紅白で、76歳にして再びこの「ルビーの指環」を披露して、健在ぶりをアピールしていたのは記憶に新しいところです。

 

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今日の1曲 (245)ランナウェイ/シャネルズ(1980)

2月の終わりに再び寒波がやってきた「今日の1曲」。

 

今日はこの曲!

 

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作詞/湯川れい子:作曲:井上忠夫

発売:1980(昭和55)年2月25日 (鈴木雅之田代まさし:当時23歳)

売上:97.5万枚(オリコン最高1位) ※1980年度年間4

1980(昭和55)年2月に発売されたシャネルズ(のちのラッツ&スター)のデビューシングルです。

 

彼らの楽曲では、これまで他に以下の曲を記事としてupしています。

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●鮮烈なデビュー曲

1980年、まだまだ昭和の年号で表記する方が主流でしたが、この年だけは「80年代の到来」として、すごく「80」という西暦がクローズアップされた感が、当時子どもなりにありました。

そんな80年代の到来と共に彼らは現れました。

♪ランナウェ~イ  

という分かり易く、かつ鮮烈な歌い出しで。

どこか懐かし気な雰囲気の音楽にのせて歌っているグループはタキシード姿に黒人と白人が半々みたいなグループ。今まで見た事のないスタイルの大人数グループで「なんだこれ?」となったものでした。

当時小4くらいだったので、フロントの人たちは本当に黒人だと思ってました(笑)

 

●ほぼミリオンの大ヒット

デビュー曲にしてオリコン最高1位を獲得し、97.5万枚を売上げ、年間4位の大ヒット曲となりました。

ここでピークが来てしまったせいか、後の曲がこれを上回る事はなくなってしまいますが、このヒットがあってその後の曲も立て続けにオリコンTOP10内に入っていった、とも言えます。

 

●ラジカセ製品の主題歌

当時パイオニアで発売した同名のラジカセの主題歌として起用され、当初はCMの尺用に1フレーズだけ吹き込むところが、レコード化される事になり、その1フレーズ詞と曲に追加がなされる形で、この曲ができたといいます。

 

●作家陣

作詞は湯川れい子さんで、作曲は井上忠夫(大輔)さんです。

この商品であるラジカセのCMディレクターの意向で、「オールディーズ風の曲」との注文を付け、それができるであろう井上忠夫さんへ打診があり、その井上さんの推薦で詞は湯川さんに担当頂きたいとなり、この組合わせになったといいます。

井上忠夫氏といえば、グループサウンズの草分けであるブルーコメッツの中心メンバーとして活躍し、その後はミュージシャン畑を歩いていましたが、この翌年には自らの歌う「機動戦士ガンダム」の映画版「哀・戦士」の主題歌がヒットし、井上大輔名義でソロシンガーとしても活躍したり、舘ひろしさんのアルバム「Rock'n Roll 1981」において、多くの曲を作曲したりしています。

このデビュー曲から5作連続でシングルは、この組合わせで製作されていました。

 

●詞とメロディー

とにかく頭の

♪ランナウェイ (ランナウェイッ) とても好きさ (ランナウェイへ~)

インパクトが強すぎますが、その後の

♪連れて 行ってあげるよ (ワーワーワー)

♪二人だけの遠い世界へ お前を抱いて ランナウェイ

と、ここまでの部分が、一般に世の人々の頭に残るところだと思います。

この部分が、一番とか二番とか関係なしに全く同じ歌詞で3度も使われており、最初と真ん中と最後、全く同じフレーズで実にシンプルである事を改めて感じました。

逆にこれ以外の部分が、「どんなメロディーだっけ?」となるかと思います。

実際、これをカラオケで歌おうとした時に、最初は歌えるけど、この後どんなメロディーか知らずに歌っていたり、また同様の現象に陥った他人を見た事があり、サビというかそのインパクトの強すぎる曲です。

当時、英語も知らない小学生だったので、

♪ランナウェイ とても好きさ

という部分に「ランナウェイという人なのかな?」と思ったことがあります(笑)

あとは小学生エピとして

冒頭部分を♪なんだべぇ~(なんだべっ)とか替え歌で歌っていた記憶もあります。子供にも刺さる詞とメロディーなんだな、と今更ながらに思いました。

このグループといえば鈴木雅之さんの圧倒的な歌唱が前面に出ていますが、23歳でこのジャケ写は貫禄ありすぎで、当時見てて30歳は優に超えてるだろうと思っていたら20代前半と聞いて驚いたものでした。

またこの鈴木さんの歌唱をさらに引き立てるのが低音ボイスであり、この曲でも♪ランナウェイと鈴木さんが歌い出した直後に「ランナウェイッ」と響かせる低音が鈴木ボーカルとの落差を際立たせ、また我々小学生はむしろこの低音ボーカルをよく真似したものでした。

 

以上、シャネルズのデビュー曲でした。

 

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今日の1曲 (244)感触(タッチ)/甲斐バンド(1979)

2024年ももう2ヶ月が終わろうとしている「今日の1曲」。

 

今日はこの曲!

 

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作詞/作曲:甲斐よしひろ

発売:1979(昭和54)年5月5日 (甲斐よしひろ:当時26歳)

売上:14.4万枚(オリコン最高13位) ※1979年度年間80

 

1979(昭和54)年5月に発売された甲斐バンド12枚目のシングル曲です。

 

甲斐バンドの楽曲ではこれまで、以下について記事をupしています。

思えば、この「今日の1曲」として取り上げた最初は甲斐バンドの楽曲でした。

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↓上の分は、実は歌詞に少々誤りがあり、正しくはコチラにて↓

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●「HERO」路線の踏襲

甲斐バンドが唯一オリコンで1位を獲得した「HERO(ヒーローになる時、それは今)」の大ヒットを受けての次のシングルとなりましたが、HEROと同じような構成の曲となりました。

初めて聴いた時、なんか似てるなと思ったものですが、それもそのはずで意図的にそのようにしたそうです。

というのも、最初にヒットした「裏切りの街角」(1975.6.5発売。最高7位。30.4万枚)の次に出したシングルが「かりそめのスウィング」(1975.10.20発売。最高44位。5.4万枚)でしたが、これが前作とは全く異なるタイプの曲でセールス的にも不発に終わり、その轍を踏まない為に、あえて同じようなタイプの曲にしたといいます。

「HERO-」もこの「感触(タッチ)」もインパクトの強いサビから始まって、間奏の後にAメロに入っていく形で、サビ⇒Aメロ⇒Bメロ⇒サビ⇒Aメロ⇒Bメロ⇒間奏明けサビ、またサビという構成は徹底して全く同じです。

そして「HERO-」が♪走りだそう~ と歌っているのに対して、この「感触(タッチ)」は、♪走り続けよう~ と歌っており、歌詞的にも相似形を感じました。

 

●歌詞

先にも多少触れましたがこれ以外で、

♪男は獣のように妖しく 女は悪魔のようにかわいい

♪男は獣のようにわがままで 女は悪魔のようにこわがりさ

とあり、「獣のように」はまぁまぁそんな感じかなという形容詞が続くのですが、「悪魔のように」に「かわいい」とか「こわがり」という意外な形容詞が続くんだな、と初めて聴いた時感じました。

この悪魔は攻撃的なものではなくて、普段は隠れている小動物みたいな悪魔なのかな、とも感じましたが、この辺の甲斐氏の作詞センスを感じさせられました。

 

♪おまえがすがる俺の 腕はこんなにも 細いけど

♪おまえがたたく俺の 胸はこんなにも 薄いけど

と1、2番にありますが、うまくゴロを合わせてるし、男としても未完成だけど、おまえを守っていくよ的な覚悟を感じる良い歌詞だと感じます。

 

●歌唱

歌い出しの

♪(Touch)夜に紛れて の部分が、♪よるにきまぎれーてへー と歌っているのが感じ取れて、語尾の伸ばしに厚みが増している事を感じますが、「HERO」の時よりもボーカルにエッジが効いてる感じがしました。

♪男は獣のように わがーままでへー

という部分なんかも、太字の伸ばしの部分にエッジが効いてて、聴いててスカッとする箇所が多数あるなと感じる曲であり、甲斐ボーカルの真骨頂の部分でもあるなと感じます。

 

●収録アルバム

この年10月にリリースされた「マイ・ジェネレーション」の2曲目に収録されています。B面「汽笛の響き」はアルバム未収録曲で、後に発売されたシングルコレクションに収録されました。こちらはポップス調で淡々と歌いつつも間奏のエレキの絡みがカッコいい曲です。

 

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今日の1曲 (243)ハートブレイカー/葛城ユキ(1985)

2月は3連休が2回あって、なかなか嬉しい「今日の1曲」。

 

今日はこの曲!

 

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作詞/作曲:G.Gill-C.Wade (日本語詞:秋谷銀四郎)

発売:1985(昭和60)年5月21日 (当時35歳)

売上:5.3万枚(オリコン最高33位) 

1985(昭和60)年5月に発売された葛城ユキさん13枚目のシングル曲です。

 

●通算19枚目

先に「13枚目のシングル曲」と書きましたが、葛城ユキさんは何度かの改名をしており、葛城ユキ名義では13枚目となるという事です。

これ以前には本名である田中小夜子名義で1枚(1969年)、朝霧まち名義で2枚(1970~71年)、葛城「ゆき」名義で3枚(1974~76年。確認できただけで)シングルをリリースしており、これらを合算すると通算19枚目という事になります。

当初はド演歌というぐらいの演歌歌手で、後の姿からは全く考えられない楽曲でしたが、その後は葛城ユキ名義になってからはポップス路線、そして唯一無二のロック歌手へと、かなり極端な変貌を遂げていきました。

1983(昭和58)年のボヘミアン(1983.5.21発売。最高3位。41.4万枚)で、その女性ロッカー感が世間的に知られるようになりましたが、この曲はその2年後に出た曲で、すっかり葛城ユキ=女性ロッカーのイメージが定着し、更にロック色を強めた感じの曲です

 

●カバー曲

出世作となった「ボヘミアン」は元々は他の歌手が歌ったもののカバーで大ヒットしましたが、この曲は洋楽のカバーでした。パット・ベネターというアメリカのやはり女性ロッカーが1979年にリリースした「Heartbreaker」のカバー曲として、秋谷銀四郎氏が日本語詞をつくり、日本の女性ロッカーの地位を確立していった彼女が歌う事となりました。

 

●「スタア誕生」主題歌

当時、一世を風靡した「大映ドラマ」シリーズのスタア誕生という堀ちえみさん主演ドラマの主題歌に起用されました。

よく番宣が流れていましたが、その時にこの曲の

♪振り向ーいたエンジェール

とか、サビの

♪ハートブレイカー!

などのフレーズが、ものすごくテンション高く歌われていた事を覚えています。

当時、中村あゆみさんが歌っていたのかと思っていましたが、後に葛城ユキさんと分かり「そうだったのか!」となった覚えがあます。

これも後で知りましたが歌詞は「You're ハートブレイカー」なんですね。「ヨラ!ハートブレイカー」だと思っていました(笑)

 

●ロックなサウンド

彼女がロッカーとしての地位を確立したといえる「ボヘミアン」は、サウンド自体はポップス的なもので、葛城ユキさん自身の強烈なボーカルやライブパフォーマンスが女性ロッカーとしてのイメージを定着させたものでしたが、この曲ではサウンドそのものもハードなものとなっています。

もっとも葛城ユキさんのボーカルがハードすぎて、音を凌駕してしまってる面もありますが。

 

●最晩年のライブ

葛城ユキさんは2022(令和4)年に73歳で亡くなられましたが、その前年2021(令和3)年のロックフェスでSHOW-YAとのライブにて寺田恵子さんとこの曲を歌われていました。

亡くなる1年前でステージ4の癌に侵されている事を公表した直後のライブでしたが、そんな事を微塵も感じさせない、健康な70代であってもすごいのに、命にかかわる病身でありながら、ものすごくパワフルなボーカルを聴かせ、往年のまま、いやそれ以上のソウルフルなステージングを見せていました。

まさかこの人が1年後に亡くなっているなんて…と思いましたが、生涯現役のロッカー魂を見せてくれたなと感じました。

 

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今日の1曲 (242)タッチ/岩崎良美(1985)

2月も後半に入りますが、相変わらず暖冬の日々の「今日の1曲」。

 

今日はこの曲!

 

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作詞:康珍化/作曲:芹澤廣明

発売:1985(昭和60)年3月21日 (当時23歳)

売上:24.7万枚(オリコン最高12位) ※1980年度年間39

1985(昭和60)年3月に発売された岩崎良美さん20枚目のシングル曲です。

 

岩崎良美さんの楽曲では、これまで以下の曲を紹介しています。

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●アニメ主題歌にして代表曲

この曲は良美さんが23歳の時にリリースされたシングル曲で、既に20枚目を数えていましたが、それまででもデビュー以来アイドル歌手として10万枚を越える売上を何度も記録してきました。

しかしオリコンTOP10に入った曲がひとつもなく、20歳をすぎてからは年々シングル曲の売上が下降するようになり、アイドル歌手としては厳しい状況にあったかと思います。

そこへ同名のアニメ主題歌として起用され、アニメは大ヒット、この曲もつられるかのようにヒットを飛ばす事となりました。

当時あだち充氏のアニメはテレビでは「みゆき」が放送され、また映画では「ナイン」という野球アニメが上映され、いずれもヒットを飛ばしました。

そこへ満を持して、という形でこの「タッチ」が放送され、双子の和也・達也と浅倉南恋物語が大変話題を呼び、アニメは2年間放送されるロングランヒットとなりました。

それまでの楽曲がアイドルの延長線上にあったもので下降する売上に対して、全く違うジャンルといってもいい楽曲で思わぬヒットとなり、アイドル歌手よりも「アニソン歌手」として人気を博すことに戸惑いがあったのではないかと思います。

個人的にはそれまでの楽曲も、アイドル歌謡としてはハイクオリティなものであり、もっと評価されて良いかと思いますが、世間の支持と本人の歌唱力が比例する訳ではなく、歌がうまいのに売れなかった歌手はそれまでも沢山いた訳で、世間的に知られるヒット曲に巡り会えただけでもかなり幸運な事と思います。

 

●アニソンならではのキャッチーさ

岩崎良美さんのこの曲のヒットですが、アニメのヒットももちろんあるでしょうが、この曲のシンプルさにもあると思います。

青春アニメらしさ全開のストレートでキャッチーなメロディーと良美さんの歌手として表現力が絶妙な融合を遂げたのだと感じます。

それまでの良美さんの曲は歌がうますぎて質が高くなりすぎたのか、逆にキャッチーさからは遠くなり、アイドル歌謡が好きな層にはあまり刺さらなかったのかもしれません。

タッチの原作者であるあだち充氏が良美さんの大ファンを公言しており、その事がこの起用に繋がったのか分かりませんが、現在に至るまで2人の親交は続いているといいます。

 

オリコンチャート

オリコン最高12位を記録し、それまでの最高位を更新しました。その後、次の「愛が

ひとりぼっち」(1985.10.16発売)で最高10位(16.0万枚)を記録し、念願のオリコンTOP10入りを(唯一)果たします。

売上枚数としては24.7万枚を記録し、週間TOP10にはランクインしなかったものの、1985年度の年間39位を記録するほどのヒットとなり、良美さんの曲では最高セールスとなりました。

 

●作家陣

作詞は康珍化さんで、アニメの世界観と実にマッチしたものとなっています。「タッチ」のアニメでは一貫して良美さんの楽曲がOPに起用されますが、もっともはまったのはこの曲でありアニメタイトルそのものでもあり、これ以上のものはないと思います。

作曲は芹沢廣明さんで、タッチのアニメ全編を通しての音楽担当でもあり、彼の世界観がアニメに前面に出ていた格好です。

 

●歌詞

♪呼吸を止めて1秒~ のフレーズは替え歌にされるほど浸透したもので、サビの

♪タッチ タッチ ここにタッチ

は今でも知る人が多い名フレーズであり、後世に歌い継がれる名曲となっています。

この曲が出た当時は、そんなにすごい曲になるとは全然思っていませんでしたが、アニメの評価と共に楽曲も評価されて良かったなとつくづく感じました。

♪すれ違いや回り道を あと何回過ぎたら 二人は触れ合うの

という歌詞がありますが、こんなにもどかしい過程を経ないと恋って成就しないものなのか?と当時中高生ぐらいだった自分は思ったものでした(笑) あっという間に「できて」しまったら作品として成立しなくなるんですが…。

アニメでは

♪星屑ロンリネス!

と歌い上げた瞬間に「カーン!」とバットでボールを打つ音がして、「タッチ」のタイトルバックが流れますが、こっちを先に知ったので、その後シングル盤で原曲を聴いた時にこの打撃音がしなかったのが拍子抜けしました(笑)

 

 

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今日の1曲 (241)青い珊瑚礁/松田聖子(1980)

暖かい2月を過ごしている「今日の1曲」。

 

今日はこの曲!

 

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作詞:三浦徳子/作曲:小田裕一郎

発売:1980(昭和55)年7月1日 (当時18歳)

売上:60.2万枚(オリコン最高2位) ※1980年度年間15位

1980(昭和55)年7月に発売された松田聖子さん2枚目のシングル曲です。

 

●世に出た曲

松田聖子」の名を世に知らしめた曲、といっても過言ではないと思います。

♪あー わたーしーのこーいは~

の歌い出しは、日本国民の多くが知るフレーズだと思います。(ある一定の年齢以上は)

 

よく彼女の「デビュー曲」と間違われますが、デビュー曲は裸足の季節(1980.4.1発売。最高12位。28.2万枚)で、当時資生堂の「エクボ」という洗顔フォームのCMソングに起用された曲で、ここでの♪エクボの~ のフレーズが有名になりました。自身は曲を歌うのみでCM出演はしておらず(どうしてもエクボが出ない為)、後に「それゆけ!レッドビッキーズという少年野球ドラマに主演することになるタレントの山田由紀子さんが出演していました。

このデビュー曲もそこそこ売れて話題にもなりましたが、爆発的なヒットを記録した最初の曲はこの青い珊瑚礁でした。

初期聖子を語る上で、あるいは松田聖子の登場を語る上で、欠くことのできない代表曲として今も語り継がれており、その時に必ずこの曲がついて回っています。

 

オリコン1位前夜

松田聖子さんのアイドル期(永遠のアイドルともいわれますが…)、ここでは結婚までの時期でいうと、オリコンヒットチャート的には「1位の常連」であり、出す曲だす曲が連続して1位に輝いていたイメージがあります(実際には24作連続1位!)

しかし、その記録はこの次である3rdシングル「風は秋色」(1980.10.1発売。最高1位。79.6万枚)からスタートするもので、意外にもこの曲は1位にはなっておらず、2位止まりでした。しかし、1980年度の年間15位の売行きを記録し、以後自身が1位に輝いた曲の多くを上回る60万枚の売上を記録しています。

 

●歌詞

サビの部分があまりにも有名すぎて、曲名よりも先に出てくるぐらいにひとり歩きしてしまって、はてどんな曲だっけ?となります。

サビでは「私の恋」は南の風に乗って、青い風を切って走れ、あの島へ、といった具合に、恋が勢いよく走りだす様を描いています。

Aメロからの歌詞だと、あなたに会うたびにすべてを忘れてしまい、はしゃいだ私はLitte Girl 熱い胸聞えるでしょう と続きます。「あなた」に会うたびに我を忘れるほど舞い上がってしまう訳ですね。

♪素肌にキラキラ珊瑚礁

と続く訳ですが、こういうフレーズを発想し表現できるってすごいなと感じました。

♪二人っきりで流されてもいいの

と続きますが、サンゴ礁が流されるかのように「二人」をみたてているのでしょうか、そして短く♪あなたが好き を挟んでの、あのサビに繋がっていきます。

サビとそれ以外の部分のテンションの落差があまりに大きいのも、逆にこの曲の魅力だといえます。

またサビは、適度にビブラートを利かせていて、歌唱力を云々された向きもありましたが、初期から十分に歌唱力のあった人だと思います。

 

●作家陣

作詞は最近亡くなられた三浦徳子さんで、作曲は小田裕一郎さんです。

デビュー曲から最初の3作がこのコンビに手によるものとなっています。小田氏も2018年に逝去されており、この2人ともがもう御存命でないのはとても残念ですが、初期の歌手としての「松田聖子像」をつくり上げたコンビといっても過言ではなく、その功績は大変大きいと思います。

この曲のサビのフレーズは、プロデューサーがイメージを伝えるや、ギターを取り出して即興で弾いた上に、この詞の部分も歌い出したものが採用されたといい、一部作詞もやっている訳で、一瞬のひらめきが生み出した名フレーズだったのですね。

サウンド的には、イントロやアウトロで遠い南の島へ連れていかれそうな、メルヘンチックな音づかい、そんな感じがしました。

 

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